文化的合理性
AIが世界を動かし始めた今、経済的合理性はもはや人間に必要なものではなくなりつつある。生産性や効率、最適化といった概念は、AIが最も得意とする領域であり、人間がそこに居続ける理由はすでに失われている。しかし、世界が合理化されればされるほど、人間は「意味」や「信念」を求めるようになる。便利さの果てで失われるのは、不便の中に宿っていた実感だ。社会がどれほど整備されても、人はなお、「自分が誰かに必要とされている」と感じなければ生きていけない。
現代において労働は、もはや生活のための手段ではない。それは「自分の存在価値を他者の中で再定義する社会的装置」として機能している。人は働くことで他者に触れ、自分がどんな形で社会に存在しているかを確かめている。だが、AIによる自動化が進むと、この装置は急速に機能を失う。人が“役に立つ”機会が減り、誰かの中で存在を確かめることが難しくなる。そこで人は、新しい装置を求める。自分を再定義できる、もう一つの共同体を。
近年、一時的に流行したオンラインサロンは、その兆しを早くも示していた。そこでは人々が共通の目的や価値観を共有し、学び合い、影響し合うことで、「自分は誰かにとって意味がある」という感覚を得ていた。それは労働の代替であり、同時に宗教の代替でもあった。宗教もまた、人間に意味と所属を与える装置である。AIが論理と最適解を提供する時代に、人間はむしろ非合理で感情的な信念体系を必要とする。だからこそ、再び“信じるための場所”が求められている。オンラインサロンであれ、文化的共同体であれ、目的は同じだ。合理を超えて生きる理由を共有すること。
これからの社会で求められるのは、経済的合理性ではなく文化的合理性である。文化的合理性とは、効率ではなく意味を基準とする生の秩序であり、数字で測れない価値を肯定する態度だ。時間をかけて理解すること、無駄な対話を続けること、非合理な信念を共有すること——それらはAIの視点から見れば不合理で非効率だが、人間にとっては幸福そのものである。AIが合理を極めるほど、人間は非合理の中でしか自分を感じられなくなる。
AIが世界を完璧に動かす時代に、人間が守るべきは「世界がゆっくり動くこと」そのものだ。人間は時間を浪費し、迷い、誤解し、後悔しながらしか成長できない。その遅さの中にこそ、信頼と物語と文化が生まれる。数値はAIが動かす。しかし、時間、信頼、美意識、そして意味は人間にしか動かせない。AIが世界を合理的に整えていくなら、人間は世界を情緒的に再解釈していく。それが、人間が生きるということの新しいかたちになる。
合理の終焉のあとに、文化の時代が始まる。人間は非合理の中にとどまりながら、なお誰かを想い、信じ、語り、共鳴し続ける。その営みこそが、AI時代における新しい合理性——文化的合理性である。