情報の秘匿と公開
以前のエッセイで、私たちの脳はひとつの宇宙=コスモスであり、それは私たちが得た情報によって形作られているという話をしました。 つまり、私たちは広大な外の宇宙(ユニバース)の中で、自分だけの小さな宇宙を情報をもとに構築しながら生きているということです。
この視点に立てば、情報を増やすことは、自分の宇宙を拡張することと同義であり、情報量が多ければ多いほど豊かに、自由に、深く世界を理解できるようになるのは明らかです。
では、私たちはその情報を他者にどこまで共有すべきでしょうか? そして、情報を秘匿することにどんな意味があるのでしょうか?
情報は「力」であり、同時に「贈り物」でもある
個人であれ組織であれ、多くの情報を持つことは明らかに優位性につながります。 知識があるからこそ、先を読める。行動できる。迷わない。
ゆえに、戦略的に考えるなら「情報は出さない方が得」だと思うかもしれません。 しかし、少し立場を変えて考えてみると、情報を他者に共有することは、その人の宇宙を広げる行為になります。 そしてもし、その「他者」が自分と同じ集団=チーム=仲間だとすれば、彼らの宇宙が広がることで、集団全体の宇宙も広がり、結果的に自分自身の宇宙もまた豊かになるのです。
つまり、情報を「出すか出さないか」という問いは、誰を仲間とみなすか、どの範囲までの人間と未来を共有したいかという問いと直結しています。
秘密は「敵味方の境界線」を示す
他者に情報を開示するということは、「あなたを信頼しています」「あなたは仲間です」というメッセージです。 逆に、情報を秘匿するというのは、「あなたは仲間ではありません」「この利益をあなたと共有するつもりはありません」という意思表示とも言えます。
たとえば企業であれば、「社外秘」情報の存在は、その企業が外部を「競争相手」として認識していることの表れです。 つまり、その情報を開示しないことで、自社の利益を最大化しようとしているのです。
この考え方は、実は人間関係にもあてはまります。 あなたがある知識を誰かに教えない、ある事実を隠す――それは、無意識に「自分の利益を守る」ことを優先し、「相手と利益を共有する」意志がないということを意味します。
公益性と個人の優位性、そのジレンマ
ここで少し視点を広げてみましょう。 企業のミッションにはよく「社会に貢献する」といった理念が掲げられています。 しかし、もしその企業が保有する情報が社会にとって価値あるものだとしたら、それを秘匿することは、その理念と矛盾していないでしょうか?
この点で、私は長年、企業の「ビジョン」と「実際の行動」に違和感を持ってきました。
対照的なのが学術の世界です。 学術界では、論文として知見を公開することで社会全体の知識基盤を高めようとする構造が整っています。 アカデミアは、利益ではなく公益性を前提とした情報共有システムを築いてきた数少ない分野の一つだと思います。
私個人としての選択
私は、できる限り多くの人に情報を共有できる人間でありたいと思っています。 たとえそれによって短期的には自分が不利になることがあっても、最終的にはその情報によって生まれた「新しい宇宙」が、誰かを救い、何かを変え、そして自分にも必ず返ってくると信じているからです。
仲間を増やすとは、共有できる宇宙を広げること。 そして「情報を出す」という行為は、あなたとその人との間に新しい世界を作ること。 私は、そんな生き方をしていきたいと思っています。