人を嫌うということ

2025年6月18日🇯🇵 日本語

人間は「関数」だと思っている

私は、人間というのは環境からの入力に対して、学習と経験によって調整されたパラメータをもとに出力を返す「関数」だと考えている。性格や本質のような、変わらない“中身”があるとは思っていない。行動は状況と履歴の結果にすぎず、固定的な何かの表れではない。

だから私は、人を嫌いにならない。感情的に不快になることはあっても、それは行為に対してであり、その人そのものを否定することはない。過去にはそうした感情もあったが、今はもうない。人に対する評価は、常にその時々の行動と状況に基づいて判断されるべきだと考えている。

なぜ人は「人そのもの」を嫌うのか

多くの人は、誰かの問題ある言動を見たときに、その人自体を「嫌い」と判断してしまう。行動を切り離して評価するのではなく、「ああいう行動をするということは、そういう人間なんだ」と考える。つまり行為ではなく人格を一括で否定する。

この判断方法は、非合理なようでいて、認知的には非常に効率的だ。他人の行動を毎回文脈込みで評価し直すのはコストがかかる。ラベルを貼っておけば、その後の判断はすべて省略できる。さらに「○○が嫌い」という態度が、仲間内での立ち位置の明示や内集団の結束にもつながる。人間の脳はネガティブな情報を強く記憶する性質があるため、一度ついた悪印象はなかなか消えない。こうして「人そのものを嫌う」という反応が、個人レベルでも集団レベルでも合理的な戦略として根付いてしまう。

自分の変化と他者の変化の非対称性

私は、自分自身がこれまでに変化してきたことをよく知っている。幼い頃にはできなかったことが、今では自然にできるようになっている。思考の幅も、他人への接し方も、大きく変わってきた。その実感があるからこそ、人間は変化するものだという理解がある。

ただ、他人についてはそうした変化のプロセスを観察できないことが多い。見えるのは表面的な行動だけであり、内面の変化や背景まではわからない。だから、自分の変化はリアルでも、他人の変化は見えづらく、「あの人は変わらない」と思い込みやすくなる。この非対称性が、判断のズレを生んでいる。

嫌悪より、導くという選択

誰かが未熟な考えを持っていたり、問題のある行動を取ったとき、私はその人を嫌ったり見下したりしない。代わりに、「どうすればその人が変化できるか」「どんな関わり方が可能か」を考えるようにしている。

もちろんそれは簡単ではないし、思うようにいかないことも多い。それでも、私はそれを自分にとっての成長機会だと捉えている。他人を変えるというのは非常に難しい課題だが、その分だけ学ぶことも多く、チャレンジしがいがある。導こうとする過程そのものが、私にとって価値のある経験になる。そう考えると、むしろそういう相手と出会えること自体が運のいいことだと思えてくる。

判断よりも変化の余地を見る

私は、他人の行為を見て判断することはあるが、それを人間そのものへの否定にはつなげない。人間は一定ではなく、常に変化している存在だと考えている。だからこそ、ひとつの行動で「こういう人間だ」と決めつけるのではなく、「今こういう状態にある」という事実として受け取る。そのうえで、次の行動を見て、再度評価する。そうやって関係性も柔軟に変わっていくべきだと思っている。

「嫌い」と感じた瞬間に、その人を閉じてしまうのではなく、まだ可能性があるものとして見続けること。それは理想論ではなく、変化の余地を見逃さずに未来をひらく、現実的な選択だと私は思っている。