Say No
"Say No"文化
Noを言えない人は組織や共同体にとって足枷になる。 個体同士が共同で生きていくためには情報コミュニケーションが必須なのだが、Noを言えない人は情報コミュニケーションにおいて怠惰だと言える。 他者に自分の持つ内部情報を正確に伝達することよりも、自身の感情を優先しているからだ。 そしてそうした個体が存在する組織内では、他人に何かものをお願いするハードルが上がる。それにより組織の凝集度は低下し、やがてその集団は組織でなくなる。
これを防ぐためには組織内でNoを言うことを常習化し、Noと言われることを前提のお願いができるような文化形成が必要だ。それにより、情報の伝達がボトルネックになることが極限に減る。情報が組織内部を十分に伝搬した時に初めてその組織を個体としてみなすことができる。
また、Noを言える文化を形作ることで相対的なYesの価値を高めることができる。False Yesがなくなるということは、True Yesだけが残る。つまり言葉への信頼性がより高まる。はっきり言って、Noを持たない人のYesにはなんの価値もない。そのYesは実質的になんの意味も持たないからだ。その状態は、コミュニケーションにおける情報純度が低いと言える。Noを言えない文化を作るということは、無の情報を常に交換し続ける文化を作ることに等しい。
たしかに、言語コミュニケーションには限界がある。そしてNoを伝えることは精神的にも簡単ではない。全ての情報伝達を言語によって行うべきだと言っているわけではない。相手の考えを察することができたら理想的だし、それは必要なコミュニケーションスタイルだ。でもそこには必ず限界がある。情報のミスコミュニケーションは絶対に起こるし、何よりそれを検証する方法がないことが一番の問題だ。だから、伝えられる状況にいるべきは伝えるべきで、聞ける状況にいる時は聞くべきなんだ。重視すべきは、共同体を運営していく上でその心理的コストを極限まで減らすことであって、それを避けることじゃない。
Yesと答えたならYesのマインドを作らなければいけない。言葉と事実に齟齬を生じさせない。そのズレは絶対に許しちゃダメなんだ。本当は嫌だけど断りきれなくてYesと言ってしまうことは俺にもある。でも言ってしまった以上それはYesだと思い込まなきゃいけない。心の中のNoをずっと引きずってるようでは、まだ言葉に対する誠意が足りない。それは単なる「嘘つき」でしかない。
Noを言えない人間は足枷だが、他人にNoと言わせられない人間もまた害悪だ。実はいかに断られるかという指標はその意味でものすごく有用で、断られる人間は偉いのである。それはNoをもらうだけではなく相手から指摘を受けたり本音を言ってもらえることにも言えるし、それはその文化を二人の中で共有できているから実現できる。Noの存在しない組織においては全ての人にその責任がある。
だから俺たちはNoと言えた人を褒めなきゃいけないし、Noと言われた人を讃えなければいけない。そうした日々の積み重ねがSay No文化を醸成し、より強化な共同体を築き上げる。