激ダサアーティスト

2025年9月11日🇯🇵 日本語

起業家とアーティスト(芸術家)の違いは、作品を誰に届けようとするかという姿勢だ。 起業家は自分以外の他者に向けて作品を作り、アーティストは自分自身に向けて作品を作る。 どちらかといえば、俺が憧れるのはアーティストの方で、他者から評価されることを求めずにひたすら自分の感性と語り合う人生は、生きがいに溢れていてとてもかっこいい。

ただ一方で、世の中には「激ダサアーティスト」が存在することにも気づいた。彼らを一言で説明すると、アーティストのふりをした価値を生まない起業家である。彼らはいつも、「俺はやりたいことをやっているから評価されなくてもいい、わかる人だけに伝わればいいんだ」という。これはアーティストだけに許された言葉であって、激ダサアーティストが発していい音じゃない。起業家なら、結果にこだわれ。

俺たちがアーティストだと認識しているほとんどの現代人は本質的には起業家だと思う。なぜならインターネットやSNSが普及したことにより、自己満足の作品が勝手に世界から評価されてしまうようになったからだ。元々は他者に向けた作品ではなかったとしても、リアルタイムでいいねやコメントがつく今の世界を生きながら、自己に内在する評価基準を保ち続けるのはほぼ不可能と言っていい。他人から評価され、それ目にしてしまった時点でアーティストで居続けることは非常に難しい。そのため構造的に、俺たちは本当のアーティストと同じ時代に生き、それを評価することはできないのだ。

俺がこう考えるようになったのは、最近自分自身が激ダサアーティストになりかけていたことに気付いたからだ。アーティストへの憧れは、他者から評価されない事実を正当化してしまう。俺は作りたいものを作るだけで、それを届ける努力はしなくていい。なぜなら俺はアーティストだからだ、と。けれども本当はもっと人から評価されたいと思っているし、そもそも始めた理由はそれを他人に届けるためだったはずだ。本当にアーティストでいたいならば、世間と距離を置かなければならない。自分の作品は自分の部屋にだけ飾っておき、死ぬまで他者からの評価を拒絶する。その覚悟がないなら、俺たちは自分自身を起業家として自認すべきだ。

起業家である以上、その作品を本当に良いものだと信じるならそれを結果で証明しなければいけない。そのためには「届ける努力」が欠かせない。バックエンドで質の良いものを磨き上げる作業と、フロントエンドで広く集客をする作業の両方が必要となる。

アーティスト気質の起業家には、このフロントエンド的努力が足りていない傾向にある。なぜならそれは、自身のアーティスト的プライドを傷つけるからだ。自分の研究論文を馬鹿向けに1分で説明できるか、Tiktokで流行りのダンスをしてインプレッションを集められるか、YouTubeの起業エンターテインメント番組に挑戦者として出演できるか...。全部死ぬほどダサすぎて吐きそうになるが、自分の作品を多くの人に届けるためには必要なことだ。これらは俺たちがアーティストを諦めた代償であり、起業家として生きる上での責務として受け止めなければならない。

俺はこの問題を以下のように割り切って考えることにした。フロントエンドでは死ぬほどダサいことをやっていい。ただ、その代わりバックエンドではひたすら良いものを作ることに専念する。この突き抜けた二面性を生み出すことで、アーティストにはなれなくてもかっこいい起業家にはなることができる。作品の質と届ける人の数を両立させることができる。ちなみにバックエンド的な努力を怠っている人はダサい起業家だと思う。でもそいつらはちゃんと割り切ってる以上激ダサではないと思う。

良いものを作ってそれを多くの人に届ける。起業家としてはそれが理想で、少しくらい我慢してでもその理想を追うべきだ。その努力を怠って、自己満足で完結している人間が一番カッコ悪い。俺は早い段階でこれに気づくことができて良かった。祝、激ダサ回避。